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わが故郷。

2022-07-04

波方事業所担当の藤本です。

私の生まれた場所は今治市の大島です。

先祖の墓のある小高い丘から海の方を見る

、村上海賊で有名な能島が一望できます。

春になると桜も咲いて観光スポットになりま

すし、潮流体験や、初夏には水軍レースも開

催されています。

松山市堀之内から松山城を見上げる

 

 そんな大島・宮窪町に生まれ育った私です

が、進学先が松山になり、1998年から現在に

至るまで23年間居住しています。もはや私は

れっきとした松山人かといえばとそういうわ

けでもなく、松山から今治市波方町の職場ま

で毎日通勤していますので、半分松山人、半

分今治人のような中途半端な立ち位置で生活

しています。

今回は私の生まれ故郷・大島と第2の故郷・

松山とは意外な接点があるという話を紹介し

たいと思います。

 

 私が生まれた今治市・大島は村上海賊が有

す。戦国時代後期に能島を根拠地とする

能島村上氏が毛に協力し、厳島の戦いで

の勝利に貢献し、た、織田信長の水軍との

木津川河口での合では散々に織田水軍を打

ち破るなど村上海の名声は今もなお語り継

がれています。私母方の祖父の実家の姓は

村上で、村上海賊関係があるように聞いて

います。

その村上海賊と関わりがある人物が明治の松

山に住んでいました。秋山真之という人物で

す。

松山に住んでいれば「坂の上の雲」という言

葉を一度は耳にします。「坂の上の雲」とは

松山出身の秋山真之とその兄、好古(よしふ

る)と俳人正岡子規の3人を主人公とし、

黎明期の明治時代から日露戦争の勝利に至る

までの明治人の歩みを描いた司馬遼太郎の歴

史巨編です。

その中の主人公の一人、秋山真之は日露戦争

ハイライトである日本海海戦において、ロ

アのバルチック艦隊を打ち破る作戦を立案

し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の指揮

の下、それを実施し海戦を大勝利に導いた人

物です。

私は性格が偏屈なのと文化的なものに親しむ

余裕もなかったせいか、松山に住みつつも、

秋山兄弟も坂の上の雲とも縁遠い生活をして

いました。

しかし、2009年から2011年までNHKスペ

シャルドラマ「坂の上の雲」が放送されて

来、私は「坂の上の雲」の大ファンとな

り、特に秋山兄弟については私の生き方にお

いて、よりどころになる部分も多く、叔父に

「坂の上の雲」の書籍を譲ってもらって日夜

読みふける日々を送りました。

日本帝国海軍中将秋山真之の銅像 

日本海海戦当時37才、海軍中佐

連合艦隊作戦参謀

 

 真之は旧帝大への進学を志し、勉学に勤し

ますが、故あって進学をあきらめ、日本海

軍に活躍の場を移します。

真之の才気は一官僚や一大臣というところに

とどまるものではなく、国運を担うというと

ころにおいてもっとも効力を発揮する、そう

いう人物であったように私は感じました。

真之は外国留学から帰国したのち、来たるロ

シア艦隊との決戦を想定して、参考にしたの

が能島村上氏に伝わる「能島流水軍古法」で

す。いわば海戦マニュアルみたいなもので、

孫子の兵法などもそうですが、その水軍古法

は敵の兵力、物量をやみくもに叩くというよ

も、何をなせば、もっとも効果的に自軍が

利となり、敵軍が不利となるか、また人の

理的な部分を上手く突くといったような部

は現代にも通用する戦術書です。

その戦術書の中には「水戦のはじめにおいて

は、わが全力をもって敵の先鋒(先頭は旗艦か

力艦である場合が多い)を撃ち、ただちに

二、三隻を沈めるのが良い。」というような

文言があります。

真之はその古書を大いに生かし、ロシアのバ

ルチック艦隊をせん滅するための通称「七段

構えの作戦」を立案し、1905年5月27日・28

日の日本海海戦において彼の構想は結実する

に至ります。海戦開始30分で大勢は決したと

言われています。真之自身は大変熱心な海軍

戦術の研究家であり、日本海軍をはるかに凌

ぐロシア・バルチック艦隊を撃滅するための

策を日夜考えていました。秋山の出自は伊予

水軍といわれており、その中核は村上海賊で

あったといわれています。

秋山真之はその研究の中で自分のルーツに答

えを見いだしたのかもしれません。

松山市ロープウェイ街を少し入った歩行町にある秋山兄弟の生誕地

 

真之の海外留学の中で得た新たな知識と、自

らの出自をたどり、紐解いた古の教え、日本

海軍が備えつつあった最新鋭の軍艦、そして

日本海軍を形作ったすべての人々の想いと努

力が日本を勝利に導きました。

坂の上の雲ミュージアム

「坂の上の雲」に関わる展示物、明治期の松山についての資料を展示

日本海海戦時の連合艦隊旗艦・戦艦三笠の模型

 

画家東城鉦太郎が描いた日本海海戦三笠艦橋の図をパネル化したもの

日本海海戦時、艦隊旗艦三笠の艦橋上に立つ連合艦隊司令長官東郷平八郎(写真中央)

写真向かって右側、東郷の後方にて熱心にメモを取るのが作戦参謀の秋山真之

 

 このような人物が松山に育ち、明治期の日

本を支えたということを知って、私はいろい

ろな感慨を抱きました。愛媛の先人には真之

やその兄・好古、そして正岡子規という立派

な人物がいたということは郷土の誇りであ

り、同じ郷土に住む人間として彼らに倣う

ものは何かということを。

秋山真之の兄で日本騎兵の父と呼ばれる日本帝国

陸軍大将秋山好古の銅像

日露戦争開戦時45才、陸軍少将

騎兵第1旅団長

 

私は子どものころに将来は船の船長さんに

りたいなどという夢を持っていましたが、

そういう私は今、船に関わる仕事していま

す。やはりそういうものなのでしょう。

人は結局自分が根付いたところを中心にたい

ていの人は歩んで行くものだと私は思ってい

ます。蛙の子は蛙と言いますが、やはりそん

なものです。私も真之と同じで故あってこの

仕事をしておりますが、その中で自分が出来

ることを精一杯やりたいと思います。

今度は逆に大島出身の私が松山の傑物、秋山

真之を参考にして。

それが真之のような大業ではなくても何かし

らの形で結実することを願って。

松山城二の丸の上にそびえ立つ連立天守群を持つ松山城

松山市一番町にある旧松山藩主の別荘として1922年に作られたフランス風洋館・萬翠荘

 

 

 

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